日本オリンピック委員会(JOC)は、東京都、一般財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会と共同で、「1964東京オリンピック・パラリンピック50周年記念ウィーク」を2014年10月6日(月)から12日(日)まで開催しました。
7日(火)〜9日(木)は「アスリートトークショー」。荻原次晴さん、宮下純一さんを司会に、“スポーツの力”はどのように育まれてきたのか、この50年の歩みを年代別に分け、歴代オリンピアンが日替わりで登場するトークショーが行われました。
イベント第2日(8日)のゲストは鈴木大地さん(競泳/1988年ソウルオリンピック100m背泳ぎ金メダル)、大林素子さん(バレーボール/1988年ソウル、1992年バルセロナ、1996年アトランタオリンピック出場)、高橋尚子さん(2000年シドニーオリンピック女子マラソン金メダル)の3人。司会者2人を交えた絶妙な掛け合いで、現役当時のエピソードや思いを語りました。
<トークショー要旨>
■競泳はメダルを狙うこと自体が挑戦だった
宮下さん 本日のテーマは、「日本のスポーツ変革期――挑戦し続けたパイオニアたち」です。
荻原さん まず、大地さんから。やっぱり聞きたいのはバサロ泳法(※)ですよ。
※背泳ぎ種目でスタートまたは折り返し直後に使われる、潜水して水中を進む泳ぎ方のこと。
鈴木さん 当時は、日本人の水泳選手がオリンピックでメダルを取るなんて誰も思っていなかったんです。無理だと言われていた時代になんとか(目指す)。それ自体が挑戦だったかなって。
宮下さん 僕は鈴木大地さんのレースを見てオリンピックに出たいって思ったんです。当時5歳だったのでリアルタイムで見たわけではないんですが、(テレビなどの)スポーツ名場面特集とかで見て思いました。
荻原さん 大地さんの泳ぎを見たときは衝撃的でしたね。いつまで水の中にいるんだろうっていうくらい。
鈴木さん 「溺れちゃったんじゃないかな」って心配された、唯一の水泳選手です(笑)。
荻原さん Qちゃん(高橋さんの愛称)は、バサロは見ていましたか?
高橋さん 見ていました。上がってきたときに「うわーこんなに速いんだ」って思う、水面に体が浮き上がった瞬間を一番楽しみにしていました。オリンピックが終わった後、(高橋さんを指導していた)小出(義雄)監督のつながりでご飯を一緒に食べたんですよね。
鈴木さん そうそう。小出監督は、僕の高校のときの体育の先生なんですよ。
一同 えー!
鈴木さん だから、Qちゃんは妹弟子みたいに勝手に思っています。
宮下さん 決勝では作戦を変えてバサロの距離を伸ばしたというお話を聞きました。勇気がいったんじゃないですか?
鈴木さん そうですね。今まで積み上げてきたものを土壇場で変えるのは勇気のいることでした。でも、3位までには入れると思っていたので、どうせなら1番がいい、勝負を懸けようと。
■新技を出し続けるバレーボール 高橋さんは非常識だった高地練習に挑む
宮下さん 大林さん、バレーボールにはどんな作戦があったんですか?
大林さん みなさん、東洋の魔女(1964年東京オリンピックのバレーボール女子代表)の秘策って知ってます? そう、回転レシーブです。新たな技として、レシーブをした後に回転したほうが早く起き上がれるんじゃないかということで編み出されたんです。ほかにもミュンヘンオリンピックでの男子は一人時間差攻撃、モントリオールオリンピックでの女子は、ひかり攻撃というすごい速い攻撃をやって金メダルを取りました。私も「素子スペシャル」というコートの端から端まで走って、ブロード(片足踏み切りのアタック)で打つ攻撃を編み出したんですけども4位でした。その後も、新しい技を2、3やったんですけど、なかなかメダルは取れませんでした。今の代表も「ハイブリッド6」という新技をやっています。それで(次のオリンピックも)メダルを取ろうと頑張っているので、新たな挑戦を後輩にはしてもらいたいなと思っています。
宮下さん いろんなチャレンジがオリンピックごとにあったんですね。高橋さんはどうですか。マラソンで挑戦というのは?
高橋さん マラソンは何も変わらないですね。今も昔も分かりやすく「スタートしてからゴールに一番先に着いた人が勝ち」みたいな、原始的な競技なんだろうなと思います。
大林さん でも進化してますよね。靴とかそういうものは全部。
高橋さん でも(他競技と比べれば)ほんのちょっとですよね。チャレンジで言えば、私の場合は高地トレーニングでした。今となっては主流ですが、当時は「医学的に見ると体に負担がかかるからやめたほうがいい」と雑誌に書かれました。でも常識の範囲内でやっていたら、常識範囲内の結果しか出ない。非常識なことをやっていかないと、取れるものも取れないと思ってやっていましたね。
宮下さん 効果は感じられましたか?
高橋さん 標高3500mの高地で練習すると、それより低いとものすごく楽なんですよ。限界って自分で決めているだけで、もっと上を行けば、限界が限界じゃなくなる。そう思うともっともっと効率の良い練習ができるので、どんどん強くなれるって思いましたね。
■周囲、そして選手同士での応援が力に
宮下さん それでは、現役当時の周りの方からのサポートや、応援はどういうものだったのでしょうか。大地さんの場合はどうでしたか?
鈴木さん 選手村では、毎日(応援メッセージの)ファックスが届くんです。手書きですし、思いもこもっている。プレッシャーもたまっていきますが、ありがたいなあといつも感じていました。
大林さん 同い年の松岡修造君(男子テニス)とは、ソウル、バルセロナ、アトランタと同じ3つのオリンピックに行きました。彼からの応援メッセージが女子バレー宛に入っていたんですが、それはうれしかったですね。
高橋さん 私はメダルを取ったシドニーオリンピックの次の大会、2004年のアテネの代表には選ばれませんでした。先輩方からは、ダメになったら報道の人たちもファンの人たちもいなくなるから覚悟しておきなさいと言われていましたし、私自身もその覚悟はありました。でも、実際は逆でした。2004年は走れてもいない、オリンピックにも行けていない……、陸上選手としてはどん底でしたが、ファンの人たちも、報道の人たちもすごい温かいご連絡や、手紙をくれました。陸上としてはダメな1年でも、人間としてはすごく良い1年を送れて、これまでで一番うれし涙を流した1年でした。それからは、恩返しのためにも強い自分として帰ってくるんだという思いが心の支えになりましたし、その後も続けられたモチベーションになりました。思い出すと涙が出てきそうです。
荻原さん やっぱり、Qちゃんの愛される性格があるからですね。だから国民栄誉賞をもらうまでいったんですよ。取りたくても取れるものじゃないですから。
宮下さん ご家族の反応はいかがでしたか? 大地さんのご両親は会場にいらっしゃっていましたか?
鈴木さん 来ていましたね。(韓国のソウル大会だったので)近かったのもありますが、うれしかったんだと思います。今は自分も親になって、子供が何かすればうれしいという気持ちも分かります。多少は恩返しできたのかなとは思います。
大林さん うちも、母や妹が応援に来てくれました。でも日本の応援団もすごいんです。日の丸がたくさん振られていたり。あの一帯が父兄の席だとか分かりますね。松岡修造君はあそこで応援してくれているんだとか(笑)。
荻原さん あの人は目立つよね。試合に集中させて!って思うもん(笑)。
大林さん 彼は選手時代から変わらないですね(笑)。自分も試合があるのに、その合間に応援に行こうっていうような人。でもその応援を苦しいときにちらっと見ると元気づけられますね。緊張もほぐれます。
宮下さん 高橋さん、マラソンは沿道を一瞬で通り過ぎてしまいますが、ご家族からの応援は分かるんですか?
高橋さん みなさんご存じのとおり、(シドニーオリンピックのラストスパートでの)あのサングラスを投げた相手は父親です(笑)。本当は30キロの時点で小出監督が待っているはずだったんです。それで、サングラスをそのときに外すって言っていたのにもかかわらず、見ても見ても監督がいない。でも、結構良いサングラスだったので、そこらへんに捨てたくなかったんです(笑)。そのときに父親が見えて「取ってー!」みたいな感じで投げたのが、結果的にスパートにつながったんです。
後で聞いたら、小出監督は22キロの地点で優勝すると思って、そのまま会場に行ってビールを飲んでいたらしいんです(笑)。
大林さん サングラスはちゃんと拾ってくれたんですか?
高橋さん レースの補助員の人が拾ってくれました。それを父親が持って帰ってきて「これ俺の宝物にしたいから欲しい」って言うのであげました。今は、父が変なダンボールの箱に入れて保管しています(笑)。
■スポーツとは何か?
宮下さん 続いては、あらかじめ伺っている「あなたにとって、スポーツとは何ですか?」という問いの答えを聞きたいと思います。まずは、鈴木大地さんからどうぞ。
鈴木さん 「スポーツとは、魔力のあるもの」です。一度関わると、ずーっと引き込まれちゃう。(現役引退した今も)いまだにスポーツと関わって、水泳と関わっています。特に、高校生のときに初めて出場した(ロサンゼルス)オリンピック、入場行進で聞いた拍手と歓声は忘れられないですね。あの瞬間に厳しさとかつらさとか、すべて忘れました。スポーツの中でも、特にオリンピックの力というのはありますね。
大林さん 私にとってスポーツは「生命線」です。今は明るく言えるんですけど、小さい時にいじめにあってたんです。理由は、背が大きかったから。そのときにちょっと家に引きこもるような時がありました。でも、そんなときにたまたま見た(バレーボール漫画・アニメの)「アタックNo.1」で、バレーは背が高いほうが有利だと知ったんです。じゃあ私は絶対にオリンピックに出て、私をいじめていた4人組にギャフンと言わせようと。オリンピックに出て胸を張ろうと思ってバレーを始めました。その後、オリンピックに出たときに、彼らが一番にサインをもらいに来ました(笑)。人生勝ったなと思いました。
高橋さん それは、かっこいい見返し方ですね。
大林さん 今でもあんまり大きいって言われるのは嫌ですけど……でも、それありきの“バレーボールの大林素子”で生きていけるなと思っていますし、スポーツには感謝しています。
宮下さん まさに「生命線」。良い話ですね。最後は高橋さん、お願いします。どんな言葉が出てくるでしょうか。
高橋さん スポーツとは「絆」です。オリンピックもありましたし、国民栄誉賞もありましたが、一番何が残ったかというと、人とのつながり、絆が一番大きかったと思います。小出監督もそう、ファンの人もそう。今でも(ライバルだった)ヌデレバ選手とかシモン選手とか、年に一度か二度は必ずごはんを食べるんです。私は英語が話せないのでジェスチャーだけなんですが、心の会話をするんです(笑)。同じときに同じものを目指した人って、魂がすごく近いところにあるような存在で、ずっとつながっていられる。ファンの方もそうですし、これからも本当に大切にしていきたいですね。
宮下さん 「絆」という言葉で締めくくっていただきました。さあ、もうお時間が迫ってまいりましたが、言い残したことはありますか?
高橋さん あります! お二人にとっての「スポーツとは」が聞きたいです! 世界で戦ってきたお二人にも聞きたいですよね。
荻原さん いやぁ、困ったなあ(笑)。
宮下さん そんなの用意してなかったですよ。
荻原さん 僕にとってはやはり「ライフ」ですね。生活そのもの。特に長野オリンピック出場で、人に感謝をするということを学びました。僕がオリンピックを目指したのは、(双子の兄でオリンピック金メダリストの)荻原健司に間違われる生活から逃れたかったんです。兄ではなく弟だと分かると、がっかりされたり、キツいことを言われることもあって。それが嫌で見返してやりたかった。でも、オリンピックに出て夢を達成してみたら、その経験も良かったんだなと思いました。兄と間違われた時に言われた言葉も“エール”だったと思えるようになったんです。そうやって、自分ひとりでここまで来たんじゃないなと感じたときに、つらいこともあったけど、あれで良かったんだなと思えるようになったんです。
荻原さん こんな感じでいいですかね、先輩(笑)? 次は後輩が素晴らしい言葉で締めてくれますから。
宮下さん 僕にとってのスポーツとは、人生の予行演習だったかなと思います。20年間の現役生活で、“泳ぎ方”しか学んで来なかったかというとそうじゃなかった。先輩とのつながりや、ライバルとのかけひきなど、人生において大切なことを、すべてスポーツから学んできたような気がします。こんなに良い教科書、人生を学べるものはない。多くの子どもたちが、2020年東京オリンピック・パラリンピックの後もスポーツをしてくれるといいなと思います。
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